【徹底解説】ウィスキーの歴史~琥珀色の神秘に迫る~

ロックや水割り、ハイボールなど様々な楽しみ方ができるウィスキー。

いまや世界中で愛されているウィスキーですが、その歴史を知っている人は少ないのではないでしょうか?

ぶっちゃけ歴史なんて知らなくてもウィスキーはおいしいです笑

しかし、

  • ウィスキーはどこで生まれたのか?
  • あの美しい琥珀色はどこからきているのか?
  • どのように世界へ広まったのか?
  • どのように日本と関わっていったのか?

これらを紐解き、ウィスキーの歴史を知ることでより深くウィスキーを楽しめます。

本記事ではウィスキーの起源から昨今の世界的なウィスキーブームまでの流れをわかりやすく解説していきます。

歴史を知り、よりディープにウィスキーをエンジョイしましょう!

ウィスキー黎明期

蒸留技術の確立と誕生と錬金術

蒸留の技術は、紀元前4000~3000年ごろのメソポタミアで始まったとされています。

当時は香料などを生成するために、利用されていたとされています。

しかし、酒の製造に使われるようになったのがいつ頃かは、まだはっきりわかっていません。

蒸留の技術は更に錬金術の流行で、より発展していきます。

錬金術とは、古代エジプトで発祥した卑金属から金などの貴金属を生み出したり、不老不死になるための方法を求める技術や思想のことです。結果的には不老不死や金を生み出すことはかないませんでした。

しかし、錬金術師たちの研鑽の副産物として、蒸留の技術を酒製造に転用する技術が生まれたといわれています。

ウィスキー発祥の地~スコットランドVSアイルランド~

ウィスキーの起源がどこにあるか?ここでは最も有力とされている二つの説を紹介していきます。

スコットランド発祥説

スコットランド説の論拠は、1494年のスコットランド王室財務省の記録に、

「王の命により修道士にアクアヴィテをつくらせた」

との記載があったとされています。アクアヴィテとは、ラテン語で”生命の水”という意味でウィスキーの語源とされている言葉です。

スコットランド発祥説

アイルランド説の論拠は、1172年にイングランドがアイルランドに侵攻した際に、地元の民衆がウスケボーと呼ばれる蒸留酒を飲んでいたとの報告があったという逸話。

ウスケボーもアクアヴィテと同様、ウィスキーの語源の1つと考えられています。

ウィスキーの発祥は、この2説が最も有力とされていますが決着はついておらず、双方で激しい論争が繰り広げられています。

ウィスキー過渡期

密造時代と樽熟成

ウィスキーの美しい琥珀色は、蒸留したての無色透明なニューポッドと呼ばれる酒を、木樽に詰めて熟成させることで生まれます。ではどのようにして樽熟成は始まったのでしょうか?

その始まりは18世紀ごろのスコットランドにあると考えられています。

17~19世紀にかけて、スコットランドは戦争が続いていて恒常的な財政難に陥っていました。これを解消するため、国はウィスキーに重い税をかけます。

生産者はこの税から逃れるために、スコットランド北部の山深いハイランド地方に潜伏して、隠れてウィスキーの製造を始めました。

そして、できあがった蒸留酒を隠す目的で木樽に詰めての保存を試みました。

保存した酒をしばらくしてから出してみるとなんと!荒々しい風味だった無色透明な酒が、まろやかで香り高い琥珀色に変身を遂げました。

この出来事がきっかけとなり、ウィスキーの樽熟成が始まったとされています。

スコットランドから世界へ

スコットランドのただの地酒でしかなかったウィスキーが、世界的な人気を博すようになったきっかけは、2つあります。

連続式蒸留器の発明

1831年、アイルランド人のイーニアス・コフィが、連続式蒸留器を実用化し、大麦以外の穀物から作られるグレーンウィスキーが作られ始めました。
もともとウィスキーといえばモルト(大麦麦芽)のみを原料とするモルトウィスキーが主流だったのですが、モルトウィスキーは個性が強すぎて万人受けはしなかったのです。
しかし、新たに誕生した個性があまりなくライトな酒質のグレーンウィスキーを、モルトウィスキーと混ぜることにより、適度な個性と飲みやすさを併せ持つブレンデッドウィスキーが誕生しました!

フィロキセラの大発生

フィロキセラとはアブラムシの一種でありブドウ樹に寄生して枯死させてしまう害虫です。
1860~1880年代にかけて大発生してヨーロッパのブドウを全滅にまで追い込みました。
このため、ブドウが収穫できなくなり、ワインやブランデーの生産ができなくなり、人々はやむなくスコッチに手を伸ばすこととなります。
この2つの出来事が折りしも重なることで、スコッチはロンドンからヨーロッパ中に広まっていきました。

アメリカ大陸での発展

アメリカンウィスキーの始まり

アメリカ大陸のウィスキーは18世紀初頭、アイルランドに入植したのちにアメリカに渡ったスコットランド系の移民”スコッチ・アイリッシュ”の手で始まったと言われています。

彼らは農業のかたわらでライ麦や大麦を使って蒸留酒を製造していました。

しかし、1783年にアメリカ独立戦争が終結すると国は財政を立て直すために、ウィスキーに重税を課しました。

これに反発したスコッチ・アイリッシュ達は、重税から逃れるために当時はまだ政府の管轄外だった、ケンタッキー州やテネシー州に移住しウィスキー製造を始めます。

彼らは、この新天地で収穫できたトウモロコシを原料に蒸留酒を造り始めました。このトウモロコシ酒がバーボンウィスキーの始まりと言われています。

禁酒法によるカナディアンウィスキーの台頭

1865年、南北戦争終結後、アメリカでのウィスキー製造は企業化が進み黄金時代を迎えます。しかしその状況が一変してしまう出来事が起こりました。

正規の悪法と名高い禁酒法の施行です。

禁酒法によりほとんどの蒸留所が閉鎖に追い込まれしまいます・・・

そんな中にわかに台頭してきたのがカナディアンウィスキーです!

カナディアンウィスキーはアメリカ独立の際、これに反発した人々が国境を越え、五大湖周辺で蒸留酒を造り始めたのが起源といわれています。

アメリカで禁酒法が始まった後もカナダはウィスキー輸出を禁止しませんでした。

そのため、かの有名なギャングスター、アル・カポネなどの裏社会の住人の暗躍で大量のカナディアンウィスキーが密輸されました。

この出来事がきっかけでカナダは”アメリカのウィスキー庫”として隆盛をむかえます。

ウィスキー新時代

日本でのウィスキーの誕生と発展

いまや世界的に高い評価を受け不動の地位を築き上げた日本製のウィスキー。

その歴史はおよそ100年前からはじまりました。

この100年間でいかにして今の地位を築いたのか?

そこには二人の男の情熱と執念がありました。

ウィスキーの渡来は黒船と共に

日本に初めてウィスキーを初めて持ち込んだのは1853年、黒船来航で有名なペリー提督と言われています。

さらに翌年、2度目の来航時には13代将軍・徳川家定にアメリカンウィスキーが献上されたとの記録されているとのことです。

その後、1858年、日米修好通商条約締結後により横浜港や長崎港が解放されると、少しずつウィスキーの輸入が増え始めました。

日本産ウィスキーの始まり

日本で最初に本格ウィスキーの製造を始めたのは、サントリーの創業者である鳥井信治郎です。

鳥井は1923年、日本初となる本格モルト蒸留所、山崎蒸留所の建設を始めました。

鳥井は山崎蒸留所の初代工場長として、後のニッカウヰスキー創業者である竹鶴政孝を招聘しました。

竹鶴は本場スコットランドで、ウィスキー作りを学び、当時ではスコッチウィスキーの作り方を知る唯一の日本人でした。

そこから紆余曲折を経て、1929年本格的な国産ウィスキー第一号”SUNTORY WHISKEY”通称「白札」が誕生しました。

鳥井と竹鶴の情熱がつまった白札でしたが、スコッチ的なスモーキーな味わいは当時の日本人の味覚と合わず、売上は思いのほか伸びずサントリー(当時は壽屋)は苦境に立たされてしまいます・・・

それでも鳥井は情熱を失うことなくウィスキー作りに邁進し、日本人の味覚に合う「角瓶」や「トリス」、「オールド」などのヒット商品を世に送り出しました!

竹鶴政孝は山崎蒸留所の立ち上げに尽力したのち独立し、大日本果汁株式会社(後のニッカウヰスキー株式会社)を創設します。

結果的に白札のスコッチ的な味わいは、当時の日本では受け入れられませんでしたが、竹鶴は本場スコッチの味わいにこだわりました。

竹鶴は日本各地を巡り、1934年にスコットランドと似た気候風土を持つ北海道余市に蒸留所を建設。

1940年に満を持して「ニッカウィスキー」を発売しました。

鳥井信治郎と竹鶴正孝。この二人の飽くなき情熱と研鑽が今の日本ウィスキーの礎を築いたのです。

低迷期を経て世界的流行へ

スコッチの低迷からの復活

1960年代、欧米を中心に世界的なスコッチブームが巻き起こりました。

需要の増加に伴いスコッチ業界の巨大資本、DCL社は増産に向け蒸留所の近代化と拡大を推進します。

しかし、革新によって味わいが平準化し多種多様なニーズに対応できなくなるという弊害が生まれました。

結果、1980~1990年代、スコッチは世界的な低迷期に陥ります。

そこで、DCL社はシングルモルトに注目しました。

シングルモルトとは、単一蒸留所のモルト原酒のみで製造されたウィスキーのことで、蒸留所ごとの個性や特性が顕れやすい特徴があります。

このシングルモルトを前面に押し出すが功を奏しシングルモルトは一気にメジャー化しました。

各蒸留所の個性を楽しむという、新しい楽しみ方ができるシングルモルトの世界的な流行によりスコッチは低迷期を抜け華麗なる復活を遂げました。

日本ウィスキーその後

戦後からバブル期

日本では終戦の翌年からウィスキーの復興は始まりました。

1946年壽者(現サントリー社)は戦災を逃れた蒸留所と原酒を使いトリスを発売開、1950年には”だるま”の愛称でおなじみの、「サントリーオールド」を発売しました。

ニッカウヰスキーも同じく1950年に「スペシャルブレンド」発売し、ジャパニーズウィスキーのパイオニアである2社は戦後も精力的に活躍し日本経済復興期の先駆けとなりました。

他の企業もにわかにウィスキー製造への参入が始まり、1970~1980年代にかけて空前のウィスキーブームが巻き起こりました。

戦後からバブル期

このブームも沈静化し日本のウィスキーは長い低迷期に突入します。

日本のウィスキー消費量が最低となった2008年ごろ、サントリー社が仕掛けた「角ハイボール」を前面に押し出した営業戦略によりハイボールブームが到来。また2000年に入ってからは日本産ウィスキーが多くの国際品評会で好成績を収めるようになり世界的に日本ウィスキーの評価と知名度が上昇しました。

更に、2007年、肥土伊知郎氏が埼玉県秩父市で創業した「ベンチャーウィスキー」を皮切りに日本中でクラフトウィスキーが製造され始め日本は第二次ウィスキーブームに突入しました。

 

ウィスキーの歴史年表

西暦 出来事

紀元前4000~3000年

メソポタミアで蒸留の技術が確立する
1172年 イングランド軍がアイルランドへ侵攻した際兵士からウスケボー

(ウィスキーの語源の1つ)に関する報告があったとされる

1494年 スコットランド王室財務省の記録に生命の水、アクアヴィテ

(ウィスキーの語源の1つ)に関する記述があったとされる

1608年 イングランド王ジェイムズ1世が北アイルランドのアントリム州領主に蒸留免許を与える
1644年 スコットランド議会による初のウィスキー課税
1689年 公式記録上、スコットランド最古の蒸留所建設
1707年 イングランドによるスコットランド併合によりグレートブリテンが成立。ウィスキー課税が恒常化し密造が増加する
1717年 この頃からアメリカに入植したスコッチ・アイリッシュの手でウィスキーが製造され始める
1757 記録上アイルランド最古の蒸留所創業
1769 カナダのケベックに記録上初めての登録蒸留上が設立
1786 スコッチ蒸留所法制定
1789 バーボンの父エライジャ・クレイグがトウモロコシでウィスキーを作る
1793 スコットランドのローランド地方でウィスキー税が3倍となる。この頃からウィスキーの密造が急増する
1824 グレンリベッド蒸留所が政府公認蒸留所第1号となり密造時代が終わりに向かう
1826~1831 連続式蒸留器が発明実用化される
1846 アメリカでウィスキーのラベルに初めてバーボンという言葉が印刷される
1853 ブレンデッドウィスキーが発売される
1853 浦賀にペリーが来航。日本人にウィスキーをふるまう
1854 ペリーが横浜で13代将軍徳川家定にウィスキーを献上
1866 アメリカにて「ジャックダニエル」が政府第1号蒸留所として発足
1899 鳥居信治郎が鳥居商店(後の寿屋、現サントリー)を創業
1918 竹鶴政孝がウィスキー製造を学ぶためスコットランドに留学
1920~1933 アメリカで禁酒法が施行
1923 竹鶴政孝、鳥居信治郎に招聘され本格モルトウィスキー蒸留所(山崎蒸留所)の建設に着手
1934 竹鶴正孝が独立しニッカウヰスキーの前身となる大日本果汁を設立。北海道・余市に蒸留所を建設
1960 世界的なスコッチブームが起きる
1973 キリン・シーグラム社が富士御殿場蒸留所を開設
20世紀後半~現在 世界的にウィスキーが流行。日本でも2008年の秩父蒸留所開設を皮切りに各地でクラフト蒸留所が次々と創設

出典❘ウィスキーを楽しむ教科書、サントリー公式サイト

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